大島渚、その横顔

1932年3月31日、京都府に生まれる。

父が農林省の水産技師であった関係で幼少期を瀬戸内地方で過ごすが、6歳で父と死別、母の実家のある京都で多感な青春期を過ごす。50年、京都大学法学部へ進学。共産党の指導する学生運動が迷走するなか、非党員を貫いて京都府学連委員長をつとめる。この学生運動で経験した痛覚と虚無感は、後の大島の作家的主張のひとつの原点となる。

松竹大船撮影所の助監督試験に合格し、54年4月に松竹入社。大庭秀雄、野村芳太郎ら名匠たちの助監督をつとめながら脚本を書きため、59年、新人スターを紹介する短篇「明日の太陽」を初演出。続いて同年9月、自作のシナリオ「鳩を売る少年」で本格的に監督としてデビューを果たす。極貧の少年とブルジョアの少女との断絶を描くこの作品は会社の反発を招き、「愛と希望の街」というタイトルに改題された上、二番館のみの細々とした公開にとどまった。

しかし日米安保闘争が激化した60年、屈折した青春の彷徨を描く第2作「青春残酷物語」がヒットし、釜ヶ崎への果敢なロケを試みた第3作「太陽の墓場」、世代をまたぐ学生運動の挫折と敗北を断罪する異色のディスカッション・ドラマである第4作「日本の夜と霧」と、隙間なく斬新な作品を発表。この大島に続く吉田喜重、篠田正浩ら松竹の新人監督の新たな潮流はジャーナリズムから“松竹ヌーヴェル・ヴァーグ”と呼ばれた。

ところが60年10月、「日本の夜と霧」は公開わずか4日めにして上映打ち切りとなる。折しも社会党の浅沼稲次郎委員長刺殺事件が発生したため、アクチュアルな政治状況への批判を含む本作の上映に与党筋からクレームが入ったと言われる。この直後、10月30日に女優・小山明子と結婚した大島は、上映中止に激しく抗議、61年6月に新人監督としての契約期間を残したまま違約金を払って松竹を退社。

この時の同志である小山明子、石堂淑朗、田村孟、渡辺文雄らと独立プロ・創造社を設立、大江健三郎原作の「飼育」(61年)、大川橋蔵主演の東映時代劇「天草四郎時貞」(62年)を手がけるも興行的には不振。そのため、3年にわたり劇場用映画から遠ざかるが、この間にもテレビ・ドキュメンタリー「忘れられた皇軍」(63年)、PR映画「小さな冒険旅行」(63年)、連続テレビ映画「アジアの曙」(64年)などの問題作、異色作を精力的に発表する。

65年、山田風太郎原作「悦楽」を皮切りに創造社製作、松竹配給の提携が始まり、武田泰淳原作「白昼の通り魔」(66年)、「日本春歌考」(67年)、「帰って来たヨッパライ」(68年)といったジャーナリスティックな題材と尖鋭な手法からなる野心作を続々と発表。そのはざまで韓国人少年の手記をスチール写真のみで描いた実験的小品「ユンボギの日記」(65年)、この手法を発展させて白土三平の人気劇画を映画として再構成した「忍者武芸帳」(67年)を製作。

68年、ATGと創造社の提携による「1000万映画」に新たな創造の可能性を探り、その第一作「絞死刑」を発表、本作のカンヌ映画祭出品が海外での大島評価の端緒となる。
続けてATGで「新宿泥棒日記」(68年)、「少年」(69年)、「東京争戦後秘話」(70年)、「儀式」(71年)、「夏の妹」(72年)と、社会状況と切り結びながら独自の特異な映画世界を煮詰めていった。なかでも、大島の大いなる主題である戦後民主主義への強烈な思いと断罪を描きこんだ「儀式」は、キネマ旬報ベスト・ワン、監督賞、脚本賞を受賞した。

73年7月、製作活動の新たな転回を期して、13年にわたって自らの作家活動の拠点としてきた創造社を解散、国際的な評価をばねに製作の機会を海外に求める。その第一弾としてフランスのアルゴス・フィルムと大島渚プロダクションの合作「愛のコリーダ」を監督。阿部定事件をモチーフにしたハードコア映画である本作は76年に膨大な修正を経た版のみが国内公開されたが、海外での高い評価をよそにスチール写真と脚本が掲載された単行本「愛のコリーダ」が警視庁に押収され、東京地検はわいせつ文書として大島を起訴。
映画版のスケープゴートとして単行本が摘発されたこの「愛のコリーダ」裁判で、大島は「芸術か猥褻か」ではなく「猥褻なぜ悪い」の論点で戦い、79年10月に東京地裁で無罪判決、控訴審も82年6月に無罪。

「愛のコリーダ」の係争中にも、同じくアルゴス・フィルムとの合作で「愛の亡霊」(78年)を監督し、カンヌ映画祭の最優秀監督賞を受賞。海外での評価の高まりのなか、英国の作家ローレンス・ヴァン・デル・ポストの原作小説をもとに「戦場のメリークリスマス」(83年)を実現させる。第二次世界大戦下のジャワの日本軍捕虜収容所を舞台に日英軍人の衝突と交感を描いた本作は、イギリスのシネベンチャー・プロダクション、大島渚プロダクションほかの提携になる、大島作品中でも突出した大作であった。デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしという意表を突くキャストが話題となって大ヒット、カンヌ映画祭での熱狂を経て、キネマ旬報読者選出ベスト・ワン、毎日映画コンクール作品賞、監督賞、脚本賞などを受賞。

続いてフランスのグリニッチ・フィルムほかの合作になる「マックス、モン・アムール」(87年)を発表。ブニュエル作品の脚本家ジャン=クロード・カリエールとの共作による英国外交官夫人とチンパンジーの不思議な愛をめぐる寓話を、ゴダール作品の名手ラウール・クタールの撮影、シャーロット・ランプリングの主演で描いた異色作であったが、この大島の尖鋭な突き抜けかたに対して未だ的確な評価はなされていない。

90年代の大島は、ハリウッド映画草創期の伝説的スター・早川雪洲とルドルフ・ヴァレンティノの愛憎を描く国際的大作「ハリウッド・ゼン」の実現に向けて注力、「戦場のメリークリスマス」のジェレミー・トーマスのプロデュースにより、坂本龍一とアントニオ・ヴァンデラスの主演でカナダで撮影開始寸前まで行きながら、資金の調達頓挫により製作中止となる。これは大島のフィルモグラフィのすべてにあって、流れたことがとりわけ惜しまれる異形の企画であった。

こうした挫折にもひるまず、英国の依頼で「KYOTO、MY MOTHER‘S PLACE」(91年)、「日本映画の百年」(95年)などのドキュメンタリーを発表する一方、96年1月に司馬遼太郎原作の松竹映画「御法度」の製作発表を行う。ところがその直後の2月、講演に向かう途上のロンドン、ヒースロー空港で脳出血のため倒れる。治療とリハビリを経て、6月からテレビ出演などの活動を再開。

99年、病気による心身のダメージと戦いながら、誰もが実現を不安視していた「御法度」を完成させる。松田優作の遺児・龍平を主役に抜擢、崔洋一やビートたけしら異色のキャストで固めて幕末の新選組を舞台にエロスと禁忌を描く本作は、大島の殺気と執念が横溢する作品となってカンヌ映画祭にも出品され、一時は死線をさまよった大島は不死鳥のようにカンヌへ赴いた。2001年、フランス芸術文化勲章を受章。

「御法度」での燃焼後は、献身的な介護を続ける妻の小山明子とともにリハビリに専心する日々であるが、2006年の日本映画監督協会製作「映画監督って何だ!」に出演して映画監督の著作権を訴え、永遠の闘士としての健在ぶりを見せた。

大島渚は、社会を束縛するあらゆる制度的な思考と戦い、そこから悠然と自由に跳躍することを夢見続けた作家である。そして、その自由人としての志向ゆえに、「大島渚とは?」という要約を無言のうちに拒み続けてきた。大島の映画作品はどれをとっても、まるで別々の映画作家が撮ったかのように異なる貌をしており、これをある特定のわかりやすい作家性をもって定義することは不可能である。あるいは、大島はある時は映画監督というよりも政治状況の愚昧をバカヤローと論破するコメンテーターであり、ある時は悩める女性たちのテレビ人生相談のジェントルな指南役であり、ある時は著名デザイナーのファッションショーのモデルであり、ある時は奇天烈なCMキャラクターであった。大島渚は彼を左に右に、あるいは重く軽く要約しようとする全ての思考から自らを解放してきた。

大島渚は、社会と、そして自らを不自由に縛るものに、不断の「ノン!」で応えてきた。そんな生粋の自由人である大島渚の人と作品を、われわれは要約するのではなく、ありのままに受け止めなくてはならない。それは言葉を換えれば、われわれは大島によって、「大島渚とは何か?」という終わりなき問いを突きつけられているということである。


(映画批評家 樋口尚文)